ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第13回は、
世界初のグランドマスター/サンドウェッジの生みの親
ジーン・サラゼン
ゴルフで油断が生まれる
最も危険な瞬間は、
万事が順調にいっている
そのときだ
(出典:野村不動産グループカスタマーズクラブ)
★ Gene Sarazen ジーン・サラゼン
出身:アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ハリソン
生年月日:1902年2月27日
没年月日:1999年5月13日(97歳没)
出典:Wikipedia
イタリア系移民の長男として、ニューヨークに生まれ、本名は「エウゲニオ・サラセニ」と言います。
貧しい家計を助けるため、10歳でキャディになったことがゴルフ人生の始まりとなり、19歳でプロゴルファーに転向します。この時にイタリア系の「エウゲニオ・サラセニ」から「ジーン・サラゼン」という名前に改名したということです。
弱冠20歳にして全米オープン、全米プロを制覇。1932年には全英オープンを獲得し、1935年の第2回マスターズでは奇跡のダブルイーグル(アルバトロス)で逆転優勝。初のグランドスラムの偉業を達成した伝説のプレーヤーとなりました。
親友であり、ライバルであったウォルター・ヘーゲンとともに初期の米国プロゴルフ界を牽引し、ゴルフ史に残る名シーンを数々残しています。栄光を極めても決しておごることなく、彼のゴルフに対するこだわりと情熱が人々の心を魅了し、多くの感動を与えたのでした。
史上初の「キャリア・グランドスラム」を達成した伝説の名選手にも苦手があり、バンカー ショットは彼を大いに悩ませました。苦手意識をなんとか克服しようとあれこれ考え、ある日離陸している飛行機を見たときのこと。パイロットが尾翼のフラップを上げ、飛行機が頭をもたげて離陸するその姿からひらめき、9番アイアンのソールに同じような傾斜をつければクラブが砂に潜らないのではないかと考えたのでした。
苦手意識で思考が堂々巡りになったとき、サラゼンはふと空を見上げたのかもしれません。そのタイミングで空には飛行機が。なんとなくの風景を見逃さず、そこに着目し、アイデアがひらめくというところからして、神が与えた才能と言えるでしょう。このひらめきとアイディア、そして改良とテストを繰り返した賜物が、今皆さんも使っている「サンドウェッジ」となるのです。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第12回は、
帝王”ジャック・ニクラウス”の後継者、新帝王と呼ばれた男
トム・ワトソン
成功の確率を倍にしたければ、失敗の確率も倍にするこ
とだ。
(出典:偉人たちの名言集)
★ Tom Watson トム・ワトソン
出身:アメリカ合衆国 ミズーリ州 カンザスシティ
生年月日:1949年9月4日 (年齢 70歳)
出典:Wikimedia commons
サウスポート、イギリス-7月16日:2008年7月16日イギリスのサウスポートのロイヤルバークデールゴルフクラブでの第137回オープンチャンピオンシップの第3練習ラウンド中にアメリカのトムワトソン。(写真:Ian Tillbrook)
父レイの勧めで6歳から競技を始め、中学生の時、ゴルフの師匠の一人であるスタン・サースク(Stan Thirsk)と出会います。1970年には全米アマチュア選手権5位の資格でマスターズに出場。翌年1971年、スタンフォード大学を卒業し、プロに転向しました。1974年の「ウェスタンオープン」でツアー初優勝。続く1975年の「全英オープン」でメジャー初優勝と躍進を続け、1977年から1980年まで4年連続、および1984年にPGAツアーの賞金王を通算5度獲得。全盛期はフォロースルーの大きなアメリカン打法から繰り出される高弾道のショットと、ツアー屈指のショートゲームの巧さで勝利を重ね、帝王と呼ばれていたジャックニクラスの後継者として “新帝王” の異名で呼ばれるようになりました。
プロとしてPGAツアー39勝、世界で通算68勝。66歳で臨んだ第80回マスターズ出場が、最後のメジャー参戦となりました。
日本とのつながりも深く、日本では通算4勝を挙げ、4つのゴルフコースを設計しました。中でも、1980年、1997年に2度優勝した「ダンロップフェニックストーナメント」が開催される宮崎の「フェニックスカントリークラブ」には、彼の名前を冠した「トム・ワトソンゴルフコース」があります。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第11回は、
「歴代最強のゴルファー」と称される不屈のレジェンド
ベン・ホーガン
「不安と緊張こそゴルフゲームでの最高の調味料である。」
(出典:みんなのゴルフダイジェスト)
★William Ben Hogan ベン・ホーガン
出身:アメリカ・テキサス州ダブリン
生年月日:1912年8月13日生まれ
没年月日:1997年7月25日(84歳没)
出典:Wikipedia
Ben Hogan seated on back of car in homecoming parade on Broadway
photo by Dick DeMarsico.
今月の名言は、競技中、ほとんど言葉を発することがなかったとも言われているレジェンドの言葉をご紹介します。
ゴルフ史を通じても屈指のプレーヤーに数えることができるベン・ホーガン。確かなゴルフの技術に裏打ちされた強固な意志と果敢な決断力を持っていたため、しばしば対戦相手を身動きできないほどに畏縮させたと伝えられています。
ホーガンは、その選手生活を何度か中断せざるを得ませんでした。第二次世界大戦で。そしてさらには、バスとの正面衝突という悲惨な自動車事故に遭い、もうプロとして競技ゴルフをするのは不可能だと医師に伝えられる程の重傷を負います。しかし、事故から7カ月後にはクラブを握り、11か月後にはトーナメントに復帰。その5か月後に行われた全米オープンで優勝するという驚異的なカムバックを果たします。この後も事故で痛めた足が思わしくなかったにもかかわらず。1951年にはマスターズと全米オープン、1953年にはマスターズ、全米オープン、全英オープンに勝利しています。プロゴルフのトーナメントで64勝を達成。まさに不屈の精神で勝ち続けたレジェンドなのです。
冷静沈着で「アイスマン」「ホーク・アイ(鷹の目)」とも呼ばれたホーガンは、不安と緊張があればあるほどゴルフがスリリングになり、克服しがいがあるというもの。それがゴルフの醍醐味と解釈できる言葉を残しました。優勝争いをする位置に近ければ近いほど、「プレッシャー」は高まります。それを楽しみながら、幾度も乗り越えてきたからこそ最強なのです。
ホーガンはこんな言葉も残しています。
「もし、マスターズが賞金のないトーナメントだったとしても、私はこれまでと変わることなく、勝つために一生懸命になるだろう。」
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第10回は、
世界一美しいスイングと称された
米国人以外史上初の賞金女王
岡本 綾子
ゴルフはどんなにテクニックを磨いても勝てる競技じゃ
ありません。
最後は人間性がものを言う。それもゴルフ技術の一つ。
(出典:Number Web)
★岡本 綾子(おかもと あやこ)
出身:広島県東広島市安芸津町
1951年4月2日
全米ツアーで通算17賞を飾り、アメリカ賞金ランキング10位内に8度もランキングされた彼女のゴルフを支えたのが、その美しいスイングです。
84年に腰を痛めたことがきっかけとなり、より負担の少ないスイングに改良されました。全てのクラブで同じリズムを保つスイング、ポイントを狙った鋭いショット、美しいフィニッシュは世界最高と讃えられ、キャリアの頂点に達しました。
クラブもボールも当時から進化した現在でも、岡本選手の技術は永遠の教材となっています。石川遼選手も、ジュニア時代に彼女のスイングを繰り返し見て基礎を作りました。また、イチローの父・鈴木宣之さんも岡本のリズムとテンポに感銘を受け、イチローにアドバイスを送りバッティングの参考にしたと言われています。
一本筋が通った理念があり、ゴルフへのスタンス、弛まぬ努力、その全てが合わさっての実力発揮。前進する岡本選手に影響されたスポーツ人は数知れず。ゴルフに限らず、スポーツ界に多大な足跡を残しました。
メジャー制覇のタイトルは果たせなかったものの、2005年には世界ゴルフ殿堂入り。日本ツアーでの試合を最後に現役を退いてから、テレビ解説、若手選手の指導など、現在でもゴルフ界に広く貢献しています。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
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ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第9回は、
AON。一時代を築いたプロゴルフ界のビッグ3
中嶋常幸
集中力というのは、裏返すと言い訳をしない
ということ。
自分はそれまで言い訳が多すぎた。
(出典:心に刺さる!運命の言葉 偉人たちの名言集)
★中嶋常幸(なかしまつねゆき)
出身:群馬県
1954年10月20日-
Amazon
単行本 – 2009/4/1
父・巌氏の英才教育で腕を磨き、1973年の『日本アマ』を当時最年少記録となる18歳で優勝。75年にプロ入りすると翌年早くも初勝利を挙げ、77年には『日本プロ』を22歳の“戦後最年少”で制した。
82年には4年連続キングの青木功を抑えて初の賞金王に輝いた。83年には年間最多勝記録の8勝をマーク。同年の『日米ゴルフ』ではジョニー・ミラーとの9打差を逆転して優勝している。85年には多くの海外選手を向こうに回して『太平洋クラブマスターズ』と『ダンロップフェニックス』に連勝。史上初の年間1億円を達成した。
海外での活躍も目覚ましかった。86年の『全英オープン』では1打差2位で最終日を迎えグレッグ・ノーマンと最終組でプレー。77と崩れて8位に終わったが日本のファンをわかせた。88年『全米プロ』ではメジャー最高位となる3位。メジャー4大会すべてでトップ10に入った初めての日本選手でもある。
賞金王に輝くこと計4回。90年代後半から不振に陥るが02年の『ダイヤモンドカップ』で7年ぶりの復活優勝。04年からはシニアツアーでも実力を発揮して『日本シニアオープン』と『日本プロシニア』を制し、レギュラーツアーと合わせて史上初の日本タイトル6冠を達成した。
近年は素晴らしい実績を讃えた表彰が続く。17年にスポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受け、19年1月には日本プロゴルフ殿堂入り(18年度)を果たした。
(出典:日本ゴルフツアー機構より)
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第8回は、
数々の金字塔を打ち立ててきたスーパースター
タイガー・ウッズ
戦い続ければ、乗り越えられる。
(出典:2019マスターズ優勝会見で)
★Eldrick Tiger Woods(エルドリック・タイガー・ウッズ)
出身:アメリカ合衆国・カリフォルニア州サイプレス
1975年12月30日-
画像:Pixabay
米陸軍特殊部隊「グリーン・ベレー」の退役軍人の父とタイ人の母を持つタイガーは、なんと生後9ヶ月の時に、父の手ほどきを受けてゴルフを始めたといいます。天才の誕生です。
“タイガー”の名は、父のベトナム戦争時代の戦友だった将校の名前から名付けられたミドルネーム。2歳の頃には南カリフォルニアで著名な幼児ゴルファーとなり、4歳になるとSCJGA(南カリフォルニア・ジュニアゴルフ協会)に加盟、8歳で70台のスコアが出せるようになったというから驚きです。
プロ転向は、スタンフォード大在学中の1996年。同年「ラスベガスインビテーショナル」で米ツアー初優勝。97年「マスターズ」でメジャー初制覇。同年4勝をあげて初の賞金王。98年に世界ランキング1位。2000年全米オープン、全英オープン、全米プロゴルフ選手権でメジャー大会連続優勝記録会3連覇など、その華々しい活躍は誰もが認め、知るところでしょう。
しかしゴルフの天才には人生の波乱も待っていました。世界中に報道された不倫スキャンダルは、あまりにもセンセーショナルでした。妻から車で逃げる途中に交通事故を起こして負傷。以後、無期限のツアー欠場を表明したのです。さらに2017年には、投薬の影響で職務質問中にろれつが回らなくなるなど、運転マナー違反として逮捕され、このニュースもまたショッキングで、もうタイガー・ウッズの勇姿は見られないかもしれないとファンのみならず落胆したことでしょう。
しかし2018年、ウッズは復活します。実に11年ぶりのメジャー制覇となった2019年「マスターズ」優勝の興奮と感動は、記憶に新しいところです。復活を遂げ、正真正銘の天才を証明してみせてくれました。今月のお言葉は、そんな怪我や人生に苦しんだウッズが会見で、様々な問題で苦しんでいる人々へ向けて発した言葉です。
「決してあきらめてはいけない。それしかないんだ。常に戦うこと。あきらめたら、道はひらけない。確かに競争に勝って、僕は今ここにいる。けれど、競争は僕をここから引きずり下ろすものでもある。ゴルフキャリアにおいても、人生においても、僕は仕事をまっとうするための良い考え方を持っていたけれど、それを変えなければいけなかった。(昔とは)違う考えを持って取り組んでいる。(方法はどうあれ)とにかく、戦うことにフォーカスする。毎朝目覚めて、いつも挑戦が目の前にはある。戦い続ければ、乗り越えられる」
(GDOニュースより)
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第7回は、
自己中バッシングを物ともしない華のある名プレイヤー
ジャンボ尾崎
ゴルフは心・技・体ではなく、体・技・心の順なのだ
(出典:みんなのゴルフダイジェスト)
★尾崎 将司(おざき まさし)
出身:徳島県 海部郡
1947年1月24日 (73)
出典:産経WEST
「ジャンボ尾崎」の愛称で親しまれている尾崎 将司は、青木功、中嶋常幸らとともに「AON」と呼ばれ、日本ゴルフの一時代を築きました。
徳島県出身の尾崎 将司は、異色の経歴の持ち主。1964年、徳島海南高校のエースとして春の選抜高校野球大会で優勝。翌年プロ野球・西鉄ライオンズに入団し、3年で退団します。プロ転向は1970年、23才の時でした。
プロゴルファーへ転向後は、1971年に日本プロゴルフ選手権で初優勝、1973年に出場2度目のマスターズ・トーナメントで東洋人で初めて8位入賞、1974年日本オープンゴルフ選手権で優勝を果たします。通算勝利数は113勝を数え、12回の賞金王を獲得。長年に渡り日本ゴルフ界の頂点に君臨しました。
他を圧倒するとてつもない飛距離、華やかなキャラクターで人気を博しますが、残念なことにマナーの悪さや横柄な態度、自己中心的な振る舞いで、度々批判されてきたことも事実。がしかし、そんなバッシングはどこ吹く風。試合では、ジャンボ尾崎が上位にいないと物足りなさを感じ、そして最終日に猛然と追い上げる彼の姿は豪快そのもので、誰もが魅せられるのでした。
そんなジャンボ尾崎の名言が今回のお言葉が「ゴルフは心・技・体ではなく、体・技・心の順なのだ」
です。
どうです? 単なるビッグマウスではありませんよね。実力が伴ってこそ許され、愛嬌のある言葉だと思いませんか? これぞ稀代の豪傑、ジャンボ尾崎そのものを言い表した名言です。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第6回は、
“ホワイト・シャーク”のニックネームを持つゴルフ界のスーパースター
Greg Norman (グレッグ・ノーマン)
運というものは自分のプレイで引き寄せるものだ。
不運というものは存在しない。
(出典:ゴルフ綜合研究所)
★Greg Norman (グレッグ・ノーマン)
出身:オーストラリア・クイーンズランド州
1955年2月10日(64歳)
出典:Wikimedia Commons
1976年、22才でプロ入り。全盛期にはゴルフ世界ランキング1位を通算「331週」保持、世界各国で合計68勝するなど、当時“世界最強”のゴルファーと呼ばれていました。こんなに強いのにメジャーでなかなか勝てず、土曜日の3日目まで首位に立ちながらの逆転負けが多かったため、いつしか「サタデーグランドスラマー」と揶揄されるほど、全米タイトルには縁がありませんでした。メジャーは1986年と1986年の全英オープンで優勝。現在活躍するオーストラリア出身のプロゴルファーたちにとっては、英雄であり憧れの存在です。
現役時代「不運の男」とも呼ばれた男の名言が、今月のお言葉です。どれだけ辛酸を舐めようと、決して運や自分以外の何かのせいにしない。しなやかな鋼のメンタルは、アグレッシブなプレースタイルにも表れているのではないでしょうか。
ノーマンは、59才の時にチェーンソーの事故で左手を負傷します。インスタグラムにギブスで固定された自らの写真を投稿すると「今日の私は幸運だった。まだ左手は付いている」とキャプションをつけたと言います。
決して不運なのではなく、それだけ経験の機会に恵まれ他のかもしれません。 愚痴をこぼさずポジティブな思考に切り替えた方が苦しくないことをグレッグ・ノーマンは教えてくれているのではないでしょうか。名プレーヤーはメンタルも一流です。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第5回は、
そのスター性と影響力、ゴルフ界随一
Rory McIlroy (ローリー・マキロイ)
何かを変えるということに対する怖さというのは
全くない。どの選択肢も自分が希望して、やりた
い方向へと進んできたものだから。
(出典:Number Web)
★Rory McIlroy (ローリー・マキロイ)
出身:イギリス、北アイルランドダウン州ハリウッド
1989年5月4日(30歳)
出典:Wikipedia
ドライバーの飛距離は320ヤード超。PGAのトップ選手として活躍するロリー・マキロイのゴルフ人生のスタートは、なんと生後18カ月のころ。2歳のころには40ヤード(約36メートル)飛ばしていたと言いますから驚きです。彼の父親は、相当早くから才能を見出していたことがわかります。寝るときもクラブを離さなかったそうで、本人も相当ゴルフに熱中するタイプと言えるでしょう。まさにゴルフをするために生まれてきた男。7歳で地元のゴルフクラブに所属。現在でもマキロイのコーチであり献身的指導者マイケル・バノン氏に師事します。
2008年、マキロイは19歳6か月という当時過去最年少の記録でワールドゴルフランキング50位に入ると、その後出場した南アフリカオープンで3位。2008年最終順位は39位と、順調にプロゴルファーの道を極めていきます。
そして、2009年の「ドバイデザートクラシック」で初優勝を飾ると、すぐ翌年2010年には「クエイルホロー選手権」で米ツアー初優勝。さらに2011年の「全米オープン」で、大会史上最少スコアの268を記録し、圧勝でメジャー初タイトルを獲得しました。その後の活躍は皆さまもご存知の通り。圧倒的な飛距離を活かしたアグレッシブなゴルフは、常にギャラリーを沸かせています。
ローリーのプロゴルファー になるまでの軌跡、詳しく書かれています。
ローリー・マキロイ 公式HP
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第4回は、
世界に日本のゴルフを知らしめた「東洋の魔術師」と呼ばれる男
青木 功(あおきいさお)
私はいつも自分に
四つのことを言い聞かせている。
耐えること。
やりとげようとする気迫を失わぬこと。
失敗は忘れ、常に次の手を考えること。
そして「素早い気分転換」だな。
(出典:偉人たちの名言集)
★青木 功(あおき いさお)
出身:千葉県我孫子市
1942年(昭和17年)8月31日
出典:青木功 公式サイト
日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位。
(wikipedia)
日本の誇り、ゴルフをしない人でもその名は誰もが知っている青木功選手ですが、中学三年生で大きな挫折を味わいます。プロ野球選手を目指していたにも関わらず、三年生最後の試合でのサヨナラ負け。その悔しさのあまり野球をやめてしまったということです。そして何気に始めた、近所の我孫子ゴルフ倶楽部でのアルバイト。それがきっかけで大きく人生が変わるのです。
アルバイトをきっかけにゴルフの虜となった青木選手は、中学校を卒業した後、キャディとして働きながら、林由郎プロの門下生となり、プロを目指します。
22歳でようやくプロ入り。2回目の受験での合格でした。トレーニングを積み重ね苦節7年、29歳の時に関東プロゴルフ選手権で初優勝を果たし、そこから頭角を現し始めます。
青木選手が飛躍した背景には、ライバルの存在は欠かすことができません。特に尾崎将司選手とのライバル関係は、プレースタイルも性格もまったく違う両極的なもので、青木選手を心底挑発させるほどのライバルだったことは言うまでもありません。しのぎを削り合う両者のライバル関係は、多くのゴルフファンを魅了し、そしてまた日本のゴルフ界を牽引するものとなりました。
青木選手の名が世界に轟いたのは、1980年の全米オープン。その時すでに「帝王」と呼ばれていたジャック・ニクラウスと激しいトップ争いを繰り広げます。最終日の18ホール、最後の1打まで勝負がもつれこむほどの大接戦。惜しくも1打差で負けましたが、この時の試合は「バルタスロールの死闘」と呼ばれ、後世にその名を残す名試合となりました。
2013年日本プロゴルフ殿堂入り。2015年秋の叙勲で旭日小綬章。
青木 功 公式サイト