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Category: 世界の名プレイヤー【今月のお言葉】


世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,20 宮里藍

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第20回は、

 

史上初の女子高生プロゴルファーとして注目を集めた「藍ちゃん」。

 

★宮里 藍

 

出身:沖縄県国東郡東村
生年月日:1985年6月19日(35歳)

 

 

 

 

「人間って楽なほうに行こうとするんですが、

 

『ここで負けても次があるや』って思ってたら、もうそれで終わり」

 

★★★

 

急激な成長は望んでいません。近道はないのです。

 

コツコツと、ひとつひとつ丁寧に。

 

しっかり自分と向き合う事で確かな物を自分の中で

 

積み重ねていけれるように、楽しみます!!」

 

(出典元:MITOV

 

 

 

 

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  • 出版社 : 二見書房 (2004/11/26)
  • 発売日 : 2004/11/26
  • 単行本 : 134ページ
  • ISBN-10 : 4576041908
  • ISBN-13 : 978-4576041902

 

 

兄の宮里聖志、宮里優作も共にプロゴルファー。兄達のゴルフについていくうちに、4歳でゴルフを始めた。小学1年にコースデビュー。その2年後には初のホールインワンを経験したと言う。
2000年、まだあどけなさが残る中学3年生だった宮里藍は、サントリーレディスオープンで歴戦のプロたちに混じって見 事なプレーを見せ、トータル1オーバーの23位タイでフィニッシュ。14歳11ヶ月でのプロツアー予選通過は当時における史上最年少記録であり、その偉業に日本中の注目を集めた。

 

中学卒業すると兄優作を追う形で沖縄を出て、同じ仙台市にある東北高校に進学。2003年高校3年時、日本女子アマチュアゴルフ選手権競技で優勝。同年「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンゴルフトーナメント」で優勝。10月9日にプロ宣言をして、史上初の高校生プロゴルファーとなった。

 

プロ入り翌年に年間獲得賞金額が1億円を突破し、不動裕理以来史上2人目の快挙を達成。横峯さくらとともに女子プロゴルフ界のニューヒロインとして大きな注目となり、ゴルフ人気の復活にも大きな貢献を果たした。

 

2006年度からは、アメリカツアーに活動の中心を置き、同年に世界ランキング6位にランクイン。2009年にエビアン・マスターズでLPGAツアー初優勝を果たし、アメリカ女子賞金ランキング3位を獲得。2010年には日本人初となる世界ランキング1位に輝いている。

宮里藍公式HPは→こちら

 

出典
Wikipedia

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世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,19 杉原 輝雄

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第19回は、

 

50年に渡って現役を続行してきた日本プロゴルフ界のドン

 

★杉原 輝雄

 

出身:大阪府茨城市
生年月日:1937年6月14日
没年月日:2011年12月28日(74歳)

 

 

 

 

苦しい時の我慢は普通の我慢。

 

本当の我慢はここがチャンスだという時に、

 

心を逸(はや)らせない我慢である。

 

(出典元:偉人たちの名言集)

 

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    出版社 : 
    コスモトゥーワン (2012/7/5)
  • 発売日 : 2012/7/5
  • 言語 : 日本語
  • 単行本 : 223ページ
  • ISBN-10 : 4877952365
  • ISBN-13 : 978-4877952365

 

 

 

小学校5年のころ自宅近くの茨木CCでキャディのアルバイトを始め、中学卒業後は高校の定時制に通いながら同CCの洗濯係として働いた。18歳で研修生となり本格的にプロを目指し始める。1957年、20歳でプロテスト合格。1962年の日本オープン選手権を皮切りに、2008年までに通算63勝(うち海外1勝、シニアツアー8勝)をあげる。

 

 

レギュラーツアーにおいて賞金王(賞金ランキング1位)を獲得したことはないが、優勝回数は国内男子プロとしては尾崎将司、青木功に次ぐ歴代3位。1989年にツアー施行後に25勝したことで永久シード権を獲得する。2001年の静岡オープン以来レギュラーツアーの予選通過はなかったが、2006年のつるやオープンゴルフトーナメントにて58試合ぶりに予選を通過した。68歳10ヶ月での予選通過は日本ツアー最年長記録であると同時に、アメリカツアーのサム・スニードが達成した67歳2ヶ月をも上回る大記録を打ち立てた。2010年の『中日クラウンズ』では同一大会51回連続出場を達成。アーノルド・パーマーが『マスターズ』で記録していた50回連続を塗り替える世界新記録となった。

小柄だった杉原は、体格のハンディを克服する工夫をこらしていた。ドライバーのシャフトを徐々に長くして47インチドライバーにも取り組んだ、長尺ドライバーの先駆者でもある。
練習量の多さはゴルフ界では有名であり、“マムシ”の異名通り決してあきらめないゴルフで勝利を重ねていく。

 

 

51回連続出場を達成した翌年2011年の『中日クラウンズ』へは体調不良の為参加を見送ると発表。2011年12月28日前立腺癌のため死去。闘病14年、最後の最後まで現役を貫いた不屈の名選手である。

 

 

参考サイト
Wikipedia
日本ゴルフツアー機構

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世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,18 松山英樹

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第18回は、

 

米ツアーの公式SNSは彼を「BEAST(ビースト)」野獣と呼んだ。

 

★松山 英樹

 

出身:愛媛県松山市出身
生年月日:1992年2月25日

 


 

 

僕は誰かにこれがベストの方法だよと言ってもらうよりも、

 

自分で何かを見つけることを、思いのままに捜し求めて

 

違うことを試し、何が自分に最もあっているかを見出すことを

 

いつも楽しんできました。

 

(出典元:あなたの毎日のモチベーションを高くする。

 

 

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松山英樹 プロツアー史上最速優勝への軌跡 ~20thつるやオープンゴルフトーナメント~ 歴史を変えた4連続バーディー [DVD]

 

 

 

4歳のときに、日本アマ出場経験もある父親の影響でゴルフを始める。中学2年生の時にゴルフ部のある明徳義塾に転校した。同高校時代に『日本ジュニア』などで優勝。日本ゴルフ協会(JGA)のナショナルチームにも選ばれるなど頭角を現す。

 

東北福祉大学に進学した松山は、アジアアマチュア選手権で日本人として初の優勝を遂げ、翌年のマスターズ出場権を獲得。翌週の日本オープンでも並み居るプロゴルファーを従え3位に入りローアマチュアを獲得した。。同年の『三井住友VISA太平洋マスターズ』では、倉本昌弘、石川遼に次ぐ史上3人目(73年以降)のアマチュア優勝を成し遂げている。
2012年には、R&Aによって創設された世界アマチュアゴルフランキングで日本人初の1位を獲得している。

 

大学のゴルフ部の主将は引き続き務めながら、2013年プロに転向。プロ転向後の成績は目覚しく。13年には4勝を挙げて史上初のルーキー賞金王に。14年からは米国ツアーに参戦。同年の『メモリアルトーナメント』で初優勝を飾った。

 

2016年2月に米2勝目を挙げると国内では『日本オープン』など2戦2勝。10月には『HSBCチャンピオンズ』で日本選手初のWGC制覇と丸山茂樹に並ぶ日本選手最多の米3勝目を同時に達成するなど、この年は、松山にとって正しく飛躍した1年となった。

 

2017年2月にはPGAツアー4勝目を挙げ、6月には全米オープンで2位タイに入った。同年11月5日、来日中のトランプ大統領(当時)と安倍元首相の霞ヶ関カンツリー倶楽部でのゴルフに同伴してプレーしたことは、記憶に新しい。

 

 

参考サイト:
Wikipedia
日本ゴルフツアー機構

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世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,17 サム・スニード

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第17回は、

 

「世界で最も華麗なスイング」と評された

 

サム・スニード

 

 

立ち直る能力こそ、偉大なプレイヤーのしるしだ。

 

偉大なチャンピオンはみな、挫折から立ち直っている。

 

 

 

(出典:言霊チャンネル)

 

 

 

 

Sam Snead サム・スニード

出身:アメリカ合衆国 バージニア州アシュウッド
生年月日:1912年5月27日  
没年月日:2002年5月23日(89歳没)

 

 

1940年 サム・スニード28歳の時のスイング

    •  


YouTube/Golfing Strokes With Sam Snead (1940)

 

 

サム・スニードは、アメリカ合衆国・バージニア州アシュウッド出身のプロゴルファー。1934年にプロ入りすると、その2年後には初優勝を挙げ、50年以上にわたりゴルフ界の第一線で活躍しました。
世界で最も華麗なスイングと評され、流れるようなその美しいスイングは“ ワンピーススイング”と名付けられるほど。この時代の道具で300ヤードを飛ばし、46年間優勝し続けた選手は他にいません。

 

同じ1912年生まれのベン・ホーガン、バイロン・ネルソンと並ぶ偉大なゴルファーであり、年間最多勝利は1950年の11勝で、この記録は今も破られていません。

 

PGAツアー通算82勝(2019年10月日本で初開催されたUSPGAツアーで、タイガーウッズ が優勝し、トップタイに並ぶ)、メジャー大会ではマスターズ3勝・全英オープン1勝・全米プロゴルフ3勝を挙げ、通算7勝を獲得しましたが、全米オープンだけは4度の2位で止まり、「キャリア・グランドスラム」は達成できませんでした。

 

しかし、ツアーのあらゆるタイトルを総なめにしたその偉業から「スラマー」と呼ばれ、1974年の世界ゴルフ殿堂創設時には、直ちに殿堂入りを果たします。シニアツアーでも長い競技経歴を築いた彼は、最晩年まで元気な姿を見せ、2002年のマスターズでも始球式を務めました。90歳まであと4日というところで脳卒中でなくなりましたが、今もなお、彼のスイングに魅せられるゴルファーは多数。長きに渡りゴルフファンに愛され続けています。

 

 

世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,16 ウォルター・ヘーゲン

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第16回は、

 

「ピアニストのタッチと、金庫破りのデリケートさを持った男」

 

ウォルター・ヘーゲン

 

 

私は1ラウンドに3つか4つのミスをするものと、

 

あらかじめ覚悟している。

 

それゆえにミスをしてもくさらないのだ。

 

 

 

(出典:ゴルフ名言集)

 

 

 

 

Walter Hagenウォルター・ヘーゲン

出身:アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ロチェスター
生年月日:1892年12月21日  
没年月日:1969年10月5日(76歳没)

 

 

 

画像:Wikipedia

 

 

ウォルター・ヘーゲンは、競技ゴルフを確立し、ゴルフの地位を高めたと表される往年の名選手のひとりです。同時代にプレーしたボビー・ジョーンズが生涯アマチュアを貫いたのに対して、ヘーゲンはプロゴルファーとしてキャリアを送りました。
ヘーゲンは、全英オープンを4回、全米オープンを2回、全米プロを5回制覇し、ゴルフ史上に大きく名を残すことになりました。彼のメジャー11勝は、ジャック・ニクラウスが1973年にメジャー12勝目を挙げるまで44年間の長きにわたってトップの記録でした。(2006年の全米プロゴルフ選手権でタイガー・ウッズがメジャー大会「12勝目」を挙げたことにより、現在ヘーゲンの通算「11勝」は歴代3位)

プロスポーツ選手として、生涯に100万ドル以上を稼ぎ、ツアーだけで生計を立てた最初のプレーヤーと言われています。また、ヘーゲンは単にプロゴルファーとして大活躍しただけでなく、大変なオシャレでも知られていました。真っ白なロールスロイスに真っ白なタキシード姿で現れることもしばしばで、フェアウエーにファッションを持ち込んだ最初のゴルファーとも言われています。

1969年10月5日に76歳で逝去。1974年に世界ゴルフ殿堂入り。1999年に創始された世界ゴルフ選手権の第1戦、「アクセンチュア・マッチプレー選手権」の優勝カップには、彼の名前を冠した「ウォルター・ヘーゲン・カップ」の名前がついています。

 

 

世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,15 樋口久子

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第15回は、

 

女子プロ第1号から、ゴルフの伝道師へ。海外女子ツアーの先駆者

 

樋口 久子

 

 

長年すごくいい成績を残してきた選手が共通して言っているのは

『あまり考えすぎないで練習して、あとは無駄な知識を排除してシンプルにできるか』ということ。

 

 

 

(出典:岡上貞夫 ゴルフは名言でうまくなる

 

 

 

 

樋口 久子(ひぐちひさこ)

出身:埼玉県川越市
生年月日:1945年10月13日  (年齢 75歳)

 

 

出典:Amazon

  • ISBN-10 : 4532176255
  • ISBN-13 : 978-4532176259
  • 出版社 : 日本経済新聞出版 (2017/10/19)

 

 

現役時代「チャコ」の愛称で親しまれた樋口久子は、埼玉県川越市で生まれました。中学校時代までは陸上競技選手でしたが、高校時代に実姉が勤務していた東急砧ゴルフ場で中村寅吉を知り、ゴルフへの関心を深めます。高校卒業後中村氏に弟子入りし、川越カントリークラブで練習場のスタッフとして勤務する傍らプロ選手としての下積み生活を送ります。1967年に第1期女子プロテストに合格し、日本人女子選手として初めてプロゴルファーとなりました。

 

その後、本格的に米女子ツアーへ参戦・優勝。前人未到の賞金女王11回獲得。通算72勝など、日本女子ゴルフ界発展の礎を築き、世界のトッププロとなります。国内69勝、海外では1977年に日本人唯一のメジャー大会制覇となる「全米女子プロ」を含む3勝を挙げ金字塔を打ちたてます。まさに、日本女子ゴルフ界を牽引したレジェンド。2003年には生涯業績部門でアジア人としては男女通じて初めてとなる世界ゴルフ殿堂入りを果たすなど、その功績は日本のみならず海外からも高く評価されています。

 

 

世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,14 ボビー・ジョーンズ

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第14回は、

 

球聖と呼ばれた伝説のゴルファー/マスターズ創始者

 

ボビー・ジョーンズ

 

 

ゴルファーは一番身近な最強の敵は、

 

自分自身であることに

 

すぐに気づくのである。

 

 

 

(出典:運命を変えてしまう言葉に出会えます!)

 

 

 

 

Bobby Jones ボビー・ジョーンズ

出身:アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ市生まれ
生年月日:1902年3月17日 
没年月日:1971年12月18日(69歳没)

 

 

出典:Wikimedia

 

 

ボビー・ジョーンズは、1930年に28歳の若さで全米・全英オープン、全米・全英アマを制し、史上初めて年間グランドスラムを達成します。1923年に最初のメジャー優勝となった全米オープンに勝ってから、1930年までの8シーズンの間に、メジャー優勝13回(全米オープン4回、全英オープン3回、全米アマ5回、全英アマ1回)という偉業を成し遂げました。後にグランドスラマーとなったベン・ホーガンやジャック・ニウラウスにも真似できなかったハイペースの快挙を成し遂げた伝説のゴルファーです。その実績がありながら28歳で引退。終生、アマチュアを貫いたことでも有名です。

 

「球聖」と評されたボビージョーンズが、今も多くの人から尊敬されている理由は、スーパープレーで偉業を残したからだけではありません。

1925年の全米オープンでのこと。第1ラウンド11番ホールで、ジョーンズは「アドレスの際、ラフにあったボールが動いた」と申告し、自らに1打罰を課しました。同伴プレーヤーのウォルター・ヘーゲンが「誰も見ていないので、ペナルティーは必要ない」とアドバイスしたほど。目立たないミスとも言えないミスだったにもかかわらず、ジョーンズは「銀行で金を盗まなかったからといって誰も褒めない。ゴルファーとして当然の行為である」と聞き入れなかったと言います。この一打で最終的にはウィリー・マクファーレンとのプレイオフとなり、1度目の18ホールのプレイオフでは決着がつかず、2度目のプレイオフの最終18番ホールでボギー対パーの1打差で敗れます。しかし、1打罰の自己申告は、ゴルファーが見習うべき誠実な姿勢として、人々に称えられました。

 

その誠実さと謙虚さから「球聖」と呼ばれたジョーンズですが、彼も若き日には、短気を起こして苦い経験をしています。初めて全英オープン(セントアンドリュース)に参加したとき、思い通りのプレーができずスコアカードを破り棄権します。アメリカに帰国した後もそのことを引きずり、とある試合で、ミスショットに苛立って投げたクラブがギャラリーに当たり、出場停止処分を受けてしまいます。その時味わった絶望感と挫折が彼を大きくしたことは疑いようがありません。

 

後に、脊髄空洞症で彼が後日車椅子生活を強いられるようになった彼は、「セントアンドリュースでの経験さえ残れば たとえ生涯で得た他の全てのものを失っても 私の生涯は 本当に満たされていた。」と、いかにこの出来事の影響が大きいものだったかを語っています。ゴルファーとして、弁護士として、人として、まさに己を研いて研いて研き切った人生だったのではないでしょうか。

亡くなった時には、セントアンドリュースのクラブハウスは、旗を降ろし彼の死を悼んだと言われています。

 

 

 

世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,13 ジーン・サラゼン

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第13回は、

 

世界初のグランドマスター/サンドウェッジの生みの親

 

ジーン・サラゼン

 

 

ゴルフで油断が生まれる

 

最も危険な瞬間は、

 

万事が順調にいっている

 

そのときだ

 

 

(出典:野村不動産グループカスタマーズクラブ)

 

 

 

 

Gene Sarazen ジーン・サラゼン

出身:アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ハリソン
生年月日:1902年2月27日 
没年月日:1999年5月13日(97歳没)

 

 

出典:Wikipedia

 

 

イタリア系移民の長男として、ニューヨークに生まれ、本名は「エウゲニオ・サラセニ」と言います。

貧しい家計を助けるため、10歳でキャディになったことがゴルフ人生の始まりとなり、19歳でプロゴルファーに転向します。この時にイタリア系の「エウゲニオ・サラセニ」から「ジーン・サラゼン」という名前に改名したということです。
弱冠20歳にして全米オープン、全米プロを制覇。1932年には全英オープンを獲得し、1935年の第2回マスターズでは奇跡のダブルイーグル(アルバトロス)で逆転優勝。初のグランドスラムの偉業を達成した伝説のプレーヤーとなりました。

親友であり、ライバルであったウォルター・ヘーゲンとともに初期の米国プロゴルフ界を牽引し、ゴルフ史に残る名シーンを数々残しています。栄光を極めても決しておごることなく、彼のゴルフに対するこだわりと情熱が人々の心を魅了し、多くの感動を与えたのでした。

 

 

史上初の「キャリア・グランドスラム」を達成した伝説の名選手にも苦手があり、バンカー ショットは彼を大いに悩ませました。苦手意識をなんとか克服しようとあれこれ考え、ある日離陸している飛行機を見たときのこと。パイロットが尾翼のフラップを上げ、飛行機が頭をもたげて離陸するその姿からひらめき、9番アイアンのソールに同じような傾斜をつければクラブが砂に潜らないのではないかと考えたのでした。
苦手意識で思考が堂々巡りになったとき、サラゼンはふと空を見上げたのかもしれません。そのタイミングで空には飛行機が。なんとなくの風景を見逃さず、そこに着目し、アイデアがひらめくというところからして、神が与えた才能と言えるでしょう。このひらめきとアイディア、そして改良とテストを繰り返した賜物が、今皆さんも使っている「サンドウェッジ」となるのです。

 

 

 

世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,12 トム・ワトソン

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第12回は、

 

帝王”ジャック・ニクラウス”の後継者、新帝王と呼ばれた男

 

トム・ワトソン

 

 

成功の確率を倍にしたければ、失敗の確率も倍にするこ

 

 

とだ。

 

 

(出典:偉人たちの名言集

 

 

 

 

Tom Watson トム・ワトソン

出身:アメリカ合衆国 ミズーリ州 カンザスシティ
生年月日:1949年9月4日 (年齢 70歳)

 

 

出典:Wikimedia commons

サウスポート、イギリス-7月16日:2008年7月16日イギリスのサウスポートのロイヤルバークデールゴルフクラブでの第137回オープンチャンピオンシップの第3練習ラウンド中にアメリカのトムワトソン。(写真:Ian Tillbrook

 

 

 

父レイの勧めで6歳から競技を始め、中学生の時、ゴルフの師匠の一人であるスタン・サースク(Stan Thirsk)と出会います。1970年には全米アマチュア選手権5位の資格でマスターズに出場。翌年1971年、スタンフォード大学を卒業し、プロに転向しました。1974年の「ウェスタンオープン」でツアー初優勝。続く1975年の「全英オープン」でメジャー初優勝と躍進を続け、1977年から1980年まで4年連続、および1984年にPGAツアーの賞金王を通算5度獲得。全盛期はフォロースルーの大きなアメリカン打法から繰り出される高弾道のショットと、ツアー屈指のショートゲームの巧さで勝利を重ね、帝王と呼ばれていたジャックニクラスの後継者として “新帝王” の異名で呼ばれるようになりました。

 

プロとしてPGAツアー39勝、世界で通算68勝。66歳で臨んだ第80回マスターズ出場が、最後のメジャー参戦となりました。

 

 

日本とのつながりも深く、日本では通算4勝を挙げ、4つのゴルフコースを設計しました。中でも、1980年、1997年に2度優勝した「ダンロップフェニックストーナメント」が開催される宮崎の「フェニックスカントリークラブ」には、彼の名前を冠した「トム・ワトソンゴルフコース」があります。

 

 

世界の名プレイヤー 【今月のお言葉】No,11 ベン・ホーガン

 

 

 

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言

 

ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?

 

ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。

 

 

 

第11回は、

 

「歴代最強のゴルファー」と称される不屈のレジェンド

 

ベン・ホーガン 

 

 

「不安と緊張こそゴルフゲームでの最高の調味料である。」

 

 

(出典:みんなのゴルフダイジェスト

 

 

 

 

William Ben Hogan ベン・ホーガン 

出身:アメリカ・テキサス州ダブリン
生年月日:1912年8月13日生まれ
没年月日:1997年7月25日(84歳没)

 

 

出典:Wikipedia
Ben Hogan seated on back of car in homecoming parade on Broadway 

photo by Dick DeMarsico.

 

 

 

今月の名言は、競技中、ほとんど言葉を発することがなかったとも言われているレジェンドの言葉をご紹介します。

ゴルフ史を通じても屈指のプレーヤーに数えることができるベン・ホーガン。確かなゴルフの技術に裏打ちされた強固な意志と果敢な決断力を持っていたため、しばしば対戦相手を身動きできないほどに畏縮させたと伝えられています。

 

ホーガンは、その選手生活を何度か中断せざるを得ませんでした。第二次世界大戦で。そしてさらには、バスとの正面衝突という悲惨な自動車事故に遭い、もうプロとして競技ゴルフをするのは不可能だと医師に伝えられる程の重傷を負います。しかし、事故から7カ月後にはクラブを握り、11か月後にはトーナメントに復帰。その5か月後に行われた全米オープンで優勝するという驚異的なカムバックを果たします。この後も事故で痛めた足が思わしくなかったにもかかわらず。1951年にはマスターズと全米オープン、1953年にはマスターズ、全米オープン、全英オープンに勝利しています。プロゴルフのトーナメントで64勝を達成。まさに不屈の精神で勝ち続けたレジェンドなのです。

 

冷静沈着で「アイスマン」「ホーク・アイ(鷹の目)」とも呼ばれたホーガンは、不安と緊張があればあるほどゴルフがスリリングになり、克服しがいがあるというもの。それがゴルフの醍醐味と解釈できる言葉を残しました。優勝争いをする位置に近ければ近いほど、「プレッシャー」は高まります。それを楽しみながら、幾度も乗り越えてきたからこそ最強なのです。

ホーガンはこんな言葉も残しています。

「もし、マスターズが賞金のないトーナメントだったとしても、私はこれまでと変わることなく、勝つために一生懸命になるだろう。」