
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第4回は、
世界に日本のゴルフを知らしめた「東洋の魔術師」と呼ばれる男
青木 功(あおきいさお)
私はいつも自分に
四つのことを言い聞かせている。
耐えること。
やりとげようとする気迫を失わぬこと。
失敗は忘れ、常に次の手を考えること。
そして「素早い気分転換」だな。
(出典:偉人たちの名言集)
★青木 功(あおき いさお)
出身:千葉県我孫子市
1942年(昭和17年)8月31日
出典:青木功 公式サイト
日本プロゴルフツアー永久シード保持者。2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共に「AON (エーオーエヌ)」と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位。
(wikipedia)
日本の誇り、ゴルフをしない人でもその名は誰もが知っている青木功選手ですが、中学三年生で大きな挫折を味わいます。プロ野球選手を目指していたにも関わらず、三年生最後の試合でのサヨナラ負け。その悔しさのあまり野球をやめてしまったということです。そして何気に始めた、近所の我孫子ゴルフ倶楽部でのアルバイト。それがきっかけで大きく人生が変わるのです。
アルバイトをきっかけにゴルフの虜となった青木選手は、中学校を卒業した後、キャディとして働きながら、林由郎プロの門下生となり、プロを目指します。
22歳でようやくプロ入り。2回目の受験での合格でした。トレーニングを積み重ね苦節7年、29歳の時に関東プロゴルフ選手権で初優勝を果たし、そこから頭角を現し始めます。
青木選手が飛躍した背景には、ライバルの存在は欠かすことができません。特に尾崎将司選手とのライバル関係は、プレースタイルも性格もまったく違う両極的なもので、青木選手を心底挑発させるほどのライバルだったことは言うまでもありません。しのぎを削り合う両者のライバル関係は、多くのゴルフファンを魅了し、そしてまた日本のゴルフ界を牽引するものとなりました。
青木選手の名が世界に轟いたのは、1980年の全米オープン。その時すでに「帝王」と呼ばれていたジャック・ニクラウスと激しいトップ争いを繰り広げます。最終日の18ホール、最後の1打まで勝負がもつれこむほどの大接戦。惜しくも1打差で負けましたが、この時の試合は「バルタスロールの死闘」と呼ばれ、後世にその名を残す名試合となりました。
2013年日本プロゴルフ殿堂入り。2015年秋の叙勲で旭日小綬章。
青木 功 公式サイト

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第3回は、
テレビが普及し始めた時代のスーパースター
アーノルド・ダニエル・パーマー(Arnold Daniel Palmer)
絶対勝つと思ったら、勝つ。
高く昇ろうと思ったら、高いところを思え。
勝つのは、たいがい、勝てると思っている人間だ。
(出典:心の常備薬)
★アーノルド・ダニエル・パーマー(Arnold Daniel Palmer)
出身:ペンシルベニア州ラトローブ出身
1929年9月10日 – 2016年9月25日
アーノルド・パーマーは、クラブプロ兼グリーンキーパーだった父の影響で、7歳の頃からゴルフを始めます。即座に素質を認められ、1954年に全米アマゴルフでデビュー、そのタイトルを獲得すると間もなくプロ入りを表明。翌年にはツアーに参加し、プロゴルファーとしてデビューしました。
パーマーはテレビ時代の最初のスターゴルファーになり、競技スポーツとしてのゴルフを多くの人々に認知させた多大なる貢献者となりました。熱心なファンが非常に多く、パーマーのファンの集団を指して“Arnie’s Army”(アーニーズ・アーミー)と呼ばれるほどでした。
米国PGAツアーでは4度賞金王となり、ジャック・二クラス、ゲーリー・プレーヤーとともにビッグ3を形成。メジャー成績は、マスターズ4勝、全米オープン1勝、全英オープン2勝。パーマーのライバルでもあるニクラウスと並んで全米プロゴルフ選手権37回の最多出場記録を持ち、優勝争いも何度か演じましたが、メジャー大会の中で唯一優勝できなかったため、グランドスラマーとなることはできませんでした。74歳となる2004年にはマスターズに50大会連続で出場し、これは最多連続出場記録となっています。2006年10月のチャンピオンズツアーを最後に、トーナメントから退きました。
逸話としては、飛行機のパイロットとしても有名で、生涯飛行時間は約2万時間。1976年には世界一周を達成していると言います。4色の傘のトレードマークで知られるアパレルブランドは、ゴルフをする人もしない人にもお馴染みで、知らない人はいないほど。昨今の若者にも人気です。ゴルフ普及への功績も大きく、偉大なるスーパースターとして知られています。

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第2回は、
日本最強のアマチュアゴルファー
中部 銀次郎(なかべ ぎんじろう)
練習場で、自分の嫌いなクラブ一本だけ持っていって
練習する人は、ほとんどいない。
(出典:まるちょん名言)
★中部 銀次郎(なかべ ぎんじろう)
出身:山口県下関市出身
1942年2月16日 – 2001年12月14日
プロよりも強いアマチュアと称され、日本のゴルフ界に名を残した中部 銀次郎。大洋漁業(現・マルハニチロ)副社長および林兼産業会長を務めた中部利三郎の三男として生まれ、父の勧めでゴルフを始めたのは小学4年生の時。小6の時点で、すでにハンデ20の腕前になっていたという神童でした。
大学受験の浪人中にアメリカで行われた第2回アイゼンハワートロフィーの日本代表の一員に選ばれるも、その時に見たジャック・ニクラスのプレーに衝撃を受け、プロを断念し国内アマチュアのトップになることを決意したと言われています。
父の会社に就職しながら日本アマ優勝を6回、1967年には当時プロトーナメントだった西日本オープンでプロを退けて優勝。この時から「プロより強いアマチュア」と称されるようになります。正確なショットで、自分よりも飛距離の出る選手にプレッシャーを与えるロングアイアンの名手だったと言われています。
 |
- 文庫: 229ページ
- 出版社: 日本経済新聞出版社 (2012/5/2)
- 言語: 日本語
- ISBN-10: 453219637X
- ISBN-13: 978-4532196370
Amazon はこちら
|

ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第1回は、
ゴルフの帝王
ジャック・ニクラウス(Jack Nicklaus)
There are plenty of fellows here who hit the ball better than I do. To beat them I have to out-prepare them.
私よりいいショットが打てる選手は大勢いる。だから、彼らに勝つためには、彼らよりも準備をすることだと思った。
★ジャック・ニクラウス
出身:アメリカ・オハイオ州
生年月日:1940年1月21日生まれ
1960年代から1990年代にかけて活躍し、ライバルのアーノルド・パーマーとともに、ゴルフをメジャースポーツにする牽引力となった人物である。圧倒的な強さと、トレードマークの金髪により「ゴールデン・ベア」 (熊) と称され、日本では「帝王」と呼ばれ、史上最高のゴルファーとも称される。
(引用:wikipedia)