ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。 ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第55回は、
ビッグ3時代の「ビッグ1」。
パットの名手
★ビリー・キャスパー
Billy Casper
出身:サンディエゴ
生年月日:1931年6月24日
没年月日:2015年2月7日没(享年83歳)
出典:Wikimedia Commons
ビリーキャスパーは、1950年代半ばから70年代半ばまでのPGAツアーで活躍したアメリカ合衆国のプロゴルファーです。4歳のときにゴルフを始め、11歳のときには、サンディエゴカントリークラブでキャディとして働き始めています。この選択が功を奏し、15歳の時にベン・ホーガンに出会っています。
この出会いは、キャスパーに大きな影響を及ぼしたことは、想像に難くありません。後に自叙伝で、ベンホーガン由来のプレースタイルについて、「ビリヤードの選手のように常に次のショットにつながるよう、戦略的にショットを放ったものだ。」と語っています。
1954年にプロ入りし、1956年のラバット・オープンでツアー初優勝。1959年の全米オープンでメジャー初優勝を果たしています。ほかに66年の同大会、70年のマスターズでも優勝したほか、PGAツアーで通算51勝をマーク。これは歴代7位の記録となっています。1961年から79年まで(77年を除く)の間ライダーカップアメリカ代表として9度出場し、1978年に世界ゴルフ殿堂入りを果たしました。
当時華やかに注目されるパーマー、ニクラス、プレーヤーのビッグ3全盛期の頃、その存在は薄いながらも戦略的で手堅いプレースタイルは、冷静なハスラーに例えられ、ニクラスにも恐れられるほど。ゴルフ史に残る名ゴルファーです。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
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第54回は、
ウェールズの偉大なるゴルファー
★ダイ・リース(デビッド・ジェームズ・リース)
Charles Blair Macdonald
出身:ウェールズ
生年月日:1913年3月31日
没年月日:1983年11月15日
ウェールズのフォンティガリー生まれのリースは、ウェールズの偉大なゴルファーの一人であり、ライダーカップのヒーローと言われています。
ダイ・リースは、ゴルフ一家に生まれ、ゴルフにどっぷり浸かって成長します。s彼の父親はクラブのプロで、母親はレイズゴルフクラブのクラブ管理人でした。彼がゴルフについて覚えている一番古いことは、5歳の時のことです。リースがクラブチャンピオンのパッティング練習を見ていると、打ってみないかと誘われたのです。驚いたことに、5歳の彼はパットに成功。その後、彼は初めてプレーしたホールではボギーだったものの、確かに、伸びしろたっぷりの才能があったのです。
リースのキャリアは1930年代から1960年代にかけて続きました。小柄だったリースは、身長を補うように肉体的、精神的な強さを身につけました。彼は全英プロゴルフ選手権で 四度優勝し、全英オープンでは、優勝こそないものの、 三度準優勝し、「全英オープンで優勝したことのない最高のゴルファー」と称賛されています。
リースの栄光の瞬間は 1957 年にやってきます。ライダー カップ チームのキャプテンを務め、22 年ぶりにヨーロッパにタイトルを持ち帰ったときでした。彼は国民的有名人となり、1958年にCBE(大英帝国勲章)を授与され、年間最優秀スポーツマンに選ばれました。リースは合計 9 回のライダーカップに出場しています。
リースは生涯ゴルフを続け、1976 年に R&A(英国ゴルフ協会)の名誉会員になりました。アーセナル FC の熱心なサポーターであったリースは、サッカーの試合の帰りに車を事故に遭いました。彼は、事故の後遺症から回復することなく、数か月後に70歳で亡くなりました。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
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第53回は、
アメリカゴルフ界黎明期の主要人物
★チャールズ・マクドナルド
Charles Blair Macdonald
出身:カナダ/オンタリオ州ナイヤガラフォールズで生まれ
生年月日:1855年11月14日
没年月日:1939年4月21日
風はゴルフの最大の財産だ。
風がいろいろ変化することによって、
ひとつのホールがいくつものホールとなるからだ。
画像:Wikipedia
チャールズ・マクドナルドは、スコットランド人の父と北アメリカの先住民族モーホーク族の血を引くカナダ人の母を持ち、両親の米国帰化により、シカゴで育ちました。1872年、16歳だったチャールズは、父親に命ぜられてスコットランドのセントアンドリュース大学に留学し、そこでゴルフを覚えます。前回このコーナーでお伝えしたオールドトムモリスらに指導を受けて、ゴルフの腕はみるみる上達し、ヤングモリスと並んでセントアンドリュースオールドコースでは、当時上級者と言われたようです。
アメリカにゴルフが伝わったのは、1880年台後半。スコットランド人移民が持ち込んだと言われています。チャールズもこの当初より友人をゴルフへ誘い、ゴルフコースを設計しています。アメリカにゴルフが伝わった当初からの主要人物で、米国で初めての18ホールゴルフコースを設計・建設しています。まさに、アメリカゴルフ黎明期を支えた人物で、また、全米ゴルフ協会 (USGA) 設立の原動力として活躍しました。第1回全米アマチュアゴルフ選手権の優勝者でもあります。
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第52回は、
数々の名コースを造った「ゴルフの守護神」
★オールド・トム・モリス
Old Tom Morris
出身:スコットランド・セント・アンドリュース
生年月日:1821年6月16日
没年月日:1908年5月24日
画像:Wikipedia
「オールド・トム・モリス 」は、本名をトーマス・ミッチェル・モリスといい、スコットランドの人ゴルファーです。オールド・トムは、1821年、ゴルフ誕生の地として知られるスコットランドのファイフにあるセント・アンドルーズの地で生まれ、1908年そこで亡くなりました。息子の「ヤング・トム・モリス」もまたゴルファーです。
オールド・トムは、1860年の第1回全英オープンで準優勝し、その翌年以降、1867年までに4回の優勝。さらに、その後1868年から4回の優勝を重ねたのは、なんと息子のヤング・トム・モリス。優勝と準優勝を分け合ったことのある唯一の親子ゴルファーという記録もあります。オールド・トムの46歳での優勝は今でも最年長記録となり、75歳になっても全英オープンに出場しています。また、ゴルフ場の設計、グリーンキーピングの革新をもたらし、正しく、ゴルフの黎明期を支え、創ったレジェンドであります。
そんなレジェンドが残した言葉「Never up, never in(届かなければ入らない。)」は、あまりにも有名です。理屈としては当たり前ですが、ゴルファーなら意味深く受け取れるでしょう。弱気で打っても、届かなければ意味がなく、悔いも残りやすいですよね。
オールド・トム・モリスは、1976年に殿堂入り、今でも多くのゴルファーを惹きつけ、セントアンドリュース18番グリーン脇には、トム・モリスショップが現存しています。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
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第51回は、
アメリカ有数のゴルフ一家で知られる
★ デービス・ラブ3世
Davis Love III
出身:アメリカ合衆国・ノースカロライナ州/シャーロット
生年月日:1964年4月13日
ルーティーンについて考えないといけないのであれば、
それはルーティンではない。
画像:Wikipedia
父親のデービス・ラブ2世も有名なプロゴルファーであり、デービス・ラブ3世は、父親が1964年のマスターズに出場した直後に生まれた。早くから父親の英才教育を受け、ノースカロライナ大学を経て1985年にプロ入り。1987年「MCIヘリテージ」で初優勝。1997年「全米プロ選手権」を勝ってメジャータイトルホルダーとなった。翌1998年は日本の「中日クラウンズ」で、2位に8打差をつけて優勝した。これが彼の唯一の国際試合優勝であり、8打差というのは大会新記録となる。2015年には51歳で地元開催の「ウィンダム選手権」を制し、ツアー通算21勝目を飾った。2017年に世界ゴルフ殿堂入り。
彼にゴルフを教えた父親のデービス・ラブ2世は、1988年に不慮の航空機事故のため、53歳で死去。悲願のメジャー初制覇を決めた年、ラブは父親から受けたゴルフのレッスンと教育をまとめた本を上梓。この本は1997年度の全米ゴルフ協会国際書籍賞(USGA International Book Award)を受賞した。息子のデービス・ラブIVもツアープロで活躍。親子三代に渡るゴルフ一家で知られる。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
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ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第50回は、
ひとたび失敗すると瞬時に逆上する短気ぶり
★トミー・ボルト
Tommy Bolt
出身:アメリカ合衆国・オクラホマ州ハワース
生年月日:1916年3月31日
没年月日:2008年8月30日(享年92歳)
常にクラブは自分の前に放り投げろ!そうすれば、それを拾いに戻って、無駄にエネルギーを使うことがないからね。
画像:Wikipedia
トミー・ボルトは、1950年代から1960年代にかけてアメリカPGAツアーで活躍したアメリカ・オクラホマ州ハワース出身のプロゴルファーです。トミー・ボルトは、第二次世界大戦中に米国陸軍で4年間過ごしたこともあり、PGAでのキャリアスタートは遅かったものの、1951年には「ノース&サウス・オープン・チャンピオンシップ」で早くもツアー初勝利を挙げました。しかし同時に、当時からミスショットの度に彼はクラブを地面に叩きつけ、林や池に投げ込むなど、怒りを爆発させるキレっぷりが問題視されています。「瞬間湯沸かし器」「terrible(酷い) トム」「サンダー(雷鳴)」など、付けられたあだ名はいくつもあります。そして生まれたのが、今回ご紹介する名言というわけです。屁理屈のようで、体力温存していたということは、もしかしたら魅せるパフォーマンス、ショー的にギャラリーを喜ばせるものだったのかもしれませんね。ゴルフは本当にメンタルが響くスポーツです。とはいえゴルフは紳士的なスポーツ。PGAは1957年に「トミー・ボルト法」というルールを採用し、故意にクラブを破損した場合には罰金を課す事としました。
成績は、「全米オープン」を征した1958年にはPGA賞金ランキングの7位をマーク。1955年と1957年のライダーカップ選抜メンバーを務め、1969年には「全米シニアプロ選手権」でシニアのメジャー優勝も果たしています。シニアツアーでも活躍したボルトは、2002年には世界ゴルフ殿堂の「ベテラン部門」に選出され、86歳にして殿堂入りを果たしました。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
ゴルフの上達のヒントに。 ビジネスの上でも、ひらめきのヒントに。
ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第49回は、
1957年の全米オープン優勝者の名言
スイングのセオリー
★ディック・メイヤー
Dick Mayer
出身:アメリカ合衆国・コネチカット州スタンフォード
生年月日:1924年8月28日
没年月日:1989年6月2日(享年64歳)
バック・スイングで体重が右足に移動するのは
腰と肩が右に回転するからであって、
腰と肩が右に移動するからではないのだ。
メイヤーは 1953 年から 1965 年にかけて PGA ツアーで 通算7 回優勝したプロゴルファーです。コネチカット州スタンフォードで生まれ、 ゴルフは、ニューヨーク市郊外のウィングド フットゴルフクラブで、有名なプレーヤーで教師でもあったクロード ハーモンに弟子入りしたことから始まります。
1954 年の全米オープンではメイヤーが優勝するところでしたが、最終ホールでなんとトリプルボギーを叩いてしまったため、エド・ファーゴルが優勝し、2打差の3位タイとなりました。
メイヤーは1957年、インバネス・クラブで行われた全米オープンの規定72ホールをディフェンディング・チャンピオンのケーリー・ミドルコフと同点で終え、18ホールのプレーオフで72対79で勝利。その時の賞金は 7,200ドルでした。 その後、世界ゴルフ選手権で 50,000 ドルを獲得し、賞金 65,835 ドルで PGA ツアー賞金リストのトップとなり、PGA 年間最優秀選手賞も受賞しています。
1957年のライダーカップチームでも活躍したプロゴルファーでしたが、現役時からアルコール依存症との闘いのでもあり、 カリフォルニア州パームスプリングスで死去。64歳でした。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
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ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第48回は、
生涯アマチュアにこだわり続けたレジェンド
★チック・エヴァンス
Chick Evans
出身:アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴ
生年月日:1890年7月18日
没年月日:1979年11月6日(享年89歳)
フォワード・プレスは、いわばスイングに反動または、はずみをつける
一種の起動力の役割をなすもので、スイングの一部である。
画像:Wikipedia
チック・エヴァンス は1910年代~50年代に活躍したアメリカのアマチュアゴルファーです。
幼少期に、キャディのアルバイトでゴルフを覚え、16歳でシカゴジュニア優勝、次の年も連覇。1916年に全米オープンと全米アマの両方で優勝。1920年も再び全米アマに勝つが、その頃から深刻なイップスに陥り、勝てなくなってしまいます。全米オープンと全米アマの両方で優勝同一年にこの2つのタイトルを取ったのは、ボビー・ジョーンズがいるのみであり、もしチック・エヴァンス が、イップスにならなければ何勝したか分からないとさえいわれています。
チック・エバンズは、ゴルフのキャリアに加えて、資格のあるキャディに大学の奨学金を提供する「エヴァンス・スカラーズ財団」を設立したことでも知られています。慈善事業と併せて、 全米アマに50回も連続出場を続けていたことなども含め、アマチュアの鑑と称えられています。
1960年、エヴァンスは、ゴルフにおける傑出したスポーツマンシップで功績を残したとし、米国ゴルフ協会から与えられる最高の栄誉である「ボブ・ジョーンズ賞」に選ばれました。アマチュアながら、世界ゴルフ殿堂入りも果たしています。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
その言葉が生まれたのは、グリーンの上だったかもしれない、ふと空を仰ぎ見た時かもしれない、または何もしない時?
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第47回は、
メキシコ系アメリカ人の象徴
★リー・トレビノ
Lee Trevino
出身:アメリカ合衆国 テキサス州 ダラス
生年月日:1939年12月1日 (年齢 83歳)
ゴルフは恋愛みたいなもの。
とことん真剣にならなければ、 面白くない。
そして本気で真剣になれば、 心は千千乱れ、かきむしられる。
Legends of Golf in Savannah, GA April 19, 2010
画像:Wikipedia
メキシコ国境に近い、テキサス州エルパソの極貧家庭に育ち、家計を助けるため、5歳の時から綿農場で働き始めたいうリー・トレビノ。ゴルフのきっかけは、叔父が1本の古いゴルフクラブと幾つかのボールを与えてくれたこと。靴磨きもしながらキャディを務め、学校は14歳で辞めた。
17歳の時にアメリカ海兵隊に入隊。軍隊生活は、海兵隊士官とのゴルフに費やされたという。退役後、トレビノは地元でクラブ専属プロになるも、賭けゴルフで臨時収入を得ることも。
1967年からPGAツアーに参戦。かなり苦労した極貧時代を経たトレビノは、1968年には、帝王ニクラウスを破って全米オープンに優勝し、いきなりトッププロに。全米オープン2勝、全英オープン2勝、全米プロも制している。ツアーは27勝。
1975年のウェスタン・オープンで、天候不良の中断中に、キャディバッグに寄り掛かってくつろいでいたところ、落雷に遭い脊椎を損傷。生死を彷徨うような負傷から、見事に復活。1980年のマーク・マコーマックのワールドゴルフランキングではトム・ワトソンに次いで2位にランクされ、1984年の全米プロゴルフ選手権で44歳にしてメジャー6勝目を飾った。その不屈の精神を讃え、「スーパーメックス」、「メリー・メックス」と呼ばれている。
1981年世界ゴルフ殿堂入り。
2000年、『ゴルフダイジェスト』誌による古今の偉大なゴルファーの14番目にランクされた。
ゴルフを愛し、ゴルフの神様に愛された世界の名プレイヤーたちの珠玉の名言
ひたむきに練習した時、闘いに挑む時、勝利した時、思わぬ結果が出た時、あの日あの時、あのプレイヤーは何を思っただろう。
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ゴルフを極めし者たちの生きた言葉を感じてみよう。
第46回は、
史上初の100万ドル超プレーヤー
★カーチス・ストレンジ
Curtis Northrup Strange
出身:アメリカ合衆国 バージニア州 ノーフォーク
生年月日:1955年1月30日 (年齢 68歳)
風が吹いたら、いつも追い風のようにスイングすればいい。
VIDEO
Curtis Strange
カーチス・ストレンジは、アメリカ合衆国 バージニア州 ノーフォーク出身、1980年代のPGAツアーの主要選手の一人。テレビのコメンテーターとしても活躍する殿堂入りのプロゴルファーです。
7歳の時に、地元のカントリークラブを経営していた父親がゴルフを始めさせたのがゴルフ人生の始まりです。
全米オープンに2年連続で優勝し、1986年のデビューから1990年まで200週以上にわたりオフィシャルワールドゴルフランキングのトップ10を維持しました。1985年、1987年、1988年はツアー賞金王になり、また、初めて年間賞金総額が100万ドルを超えたプレーヤーにもなりました。
状況に左右されない正確なショットで勝負強さを見せていたストレンジ。その強さのコツは、風の捉え方にあったのかもしれません。ゴルファーを悩ませる「風」。高く上がるだけだったり、下手すれば戻ってきてしまうことも。しかし、ストレンジは、ゴルフをやる限り多少の風があるのは当たり前。ゴルフは心理戦でもあるので、ならば向かい風も追い風と思って打とうじゃないかという発想をしたんですね。向かい風に対して追い風のように振れれば、ボールに余計なスピンがかからないために、力まず意外に飛んで行くものなのかもしれません。
力では絶対に風には勝てません。そんな日にプレーすることになったら、力を抜いて「おお!よい追い風だ〜」と思い込んで、風を楽しんでみてください。